確 信
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「禁欲?」
俊は一瞬、聞こえてきた言葉の意味を理解できずに、
頭の中で反芻したあと思わず口に出した。
「・・・そうだ」
現在俊が所属する柴田ジムのオーナー兼会長である柴田孝夫は
前に立つ俊をじっと見据えながら言った。
「お前の自制力はかなり優れている。だから今まではお前にまかせて何も言ってこなかった。」
「・・・・・・・」
オーナーの言葉が途切れると二人のいる会長室はしんと静かになった。
サイドボードの上に置かれてあるガラス製の置時計の音だけが、コツコツと部屋中に響いていた。
「・・・だが、今回は今までの試合とは違う。」
「・・・・・・」
俊も柴田に視線を合わせたまま静かにうなづいた。
「タイトルマッチまであと一週間を切った。お前は順調に勝ち続けてきている。
お前の力を信じていないわけではないが、念には念を・・・だ。
ここまできたら、あとは前を見るだけだ。
そのためには、最善の方法で、よりよい環境を作り上げる必要がある」
俊は何も答えず、柴田から視線をはずし足元を見た。
「彼女とはこれから試合まで会うな」
「・・・!」
「あの子がお前の邪魔をするというわけじゃないが・・・
会うことでその分、お前の中の闘争心が幾分和らげられてしまう。
今までならそれでもよかった。だが、今回は違うんだ。
最大の闘争心で挑まなければならない。・・・・・・わかるな・・・?」
「・・・・・はい」
俊はそううなずいてキュッと唇をかんだ。
「話はそれだけだ。戻っていいぞ」
柴田の言葉を受けると、俊は失礼しますと軽く頭を下げて背を向けた。
「・・・・・俊」
柴田が俊の背中に声をかけた。
「お前には期待している。
夢がすぐそこまで来ている。
今度の試合は夢をつかみとるための大事なチャンスだ。
お前にも・・・俺にもな・・・・」
俊は振り返らないままでコクンとうなづくとその部屋を出た。
俊はすっかり暗くなった中、急ぐでもなくゆっくりと自宅への道を帰っていた。
さきほど告げられたオーナーの気持ちはよくわかっていた。
俊が柴田に初めて声をかけられたのは高校1年の終わりだった。
彼は神風高校との練習試合を見に来ていたらしい。
そのころの柴田ジムはまだ立ち上げられたばかりの新設ジムだった。
柴田孝夫は10年ほど前、劇的な引退試合を繰り広げた元ボクサーであり、俊もよく知っていた。
まだ幼かった時代に見た彼の姿は、子供ながらに感銘を受け今でもよく覚えている。
憧れの人から誘いを受け、俊はそのまま彼のジムに入会した。
神谷ジムに戻ろうかどうしようかと迷っていた時期に、その誘いを断る理由はなかった。
彼のジムには俊も含めて数人の選手しかいなかったが、それがかえって俊にとっては居心地がよかった。
1回1回の試合を皆それぞれが大切にし、コツコツと2年半かけてここまでジムとともに成長してきた。
そして、今回・・・・・。
他の選手が惜しくも敗れていく中俊だけが決勝まで勝ち進んできた。
そして来週、世界というタイトルをかけて、チャンピオンと争うことになる。
幼い頃から思い描いてきた夢をつかもうとする俊。
そしてその夢を自分の育てる選手にたくそうとする柴田。
二人の想いは今、同じ目標へと向かって交錯している。
今回のチャンスを逃すわけにはいかない。
俊もそして柴田ジムも今後の飛躍のためにはチャンピオンという響きは不可欠なものであった。
俊はふと立ち止まった。
そしてポケットに入れていた小さいキーホルダーを取り出して眺めた。
先日蘭世がお守りだといって手渡してくれたものだった。
単に無機質な素材でしかないものが、熱を帯びて、何か大きな意味を持っているようにすら感じる。
俊はそれをぎゅっと握り締めて夜空を見上げた。
「えっ?」
台所に立っていた蘭世は俊の言葉に思わず振り返った。
「試合が終わるまで来なくていいから」
俊は蘭世の方を向くことができずに、洗濯物をかごの中に放り込みながらもう一度同じことを言った。
「どうして?」
蘭世は右手に持っていた菜ばしをカタンと置き、俊の隣にかけよった。
「大事な試合なんだ。集中力を高めたい」
「・・・・・・私・・・・・邪魔?」
冷蔵庫を開けに台所へ行った俊の背中を見送りながら蘭世は声を震わせながら言った。
「そういうことじゃなくて・・・」
俊は冷蔵庫から取り出したスポーツ飲料の缶を手の中でコロコロと転がしながら言ったものの、
そのあとの言葉が見つからない。
「・・・たった、1週間だろ?」
やっと見つけた言葉がこんな言葉で、俊は自分を無言で責めた。
「・・・・・ご飯は・・・どうするの?」
「ジムの近くの定食屋で済ますよ。顔もきくし、栄養も考えてくれるはずだ」
「・・・そう・・・」
蘭世は淋しそうな顔をしたままうつむいた。
「・・・・江藤・・・」
「・・・・うん。そうよね。真壁くんの夢がかかった大事な試合だもん。
邪魔しちゃだめだよね。わかった。当日応援には行くから」
蘭世はキュッと唇を一文字に結んでニコッと微笑んでいった。
そのいかにも作りましたと言わんばかりの笑顔が、よけい痛ましく感じられる。
俊は蘭世のそばによってそっと頬に手を当てた。
・・・・・・邪魔なわけないだろ・・・・・・
俊はそう言いかけた言葉を飲み込んだ。
これが自分をもっと強くさせることの唯一の方法なんだとしたら・・・
俺はこれを乗り越えなければいけない。。。
「1週間、お前には会わない。でもその代わり・・・・・・」
「その代わり?」
「絶対に勝つから・・・」
俊の強い眼差しに蘭世の心はドクンと大きくなった。
「・・・うん・・・。応援してる・・・」
蘭世は俊の目を見つめ返しながら言った。
「・・・じゃあ・・・帰るね」
「送るよ」
「ううん。いい。一人で帰れるから・・・。当日試合会場で・・・」
「・・・特等席用意しとくよ」
蘭世はにっこりと微笑んで、俊の部屋をあとにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「俊っ、左のスピード落ちてるぞ!サイドへの動きも遅れてる!」
コーチのミットに俊は休むことなくグローブを打ちつけながら今日もトレーニングに励んでいた。
蘭世と会わなくなって3日。
1週間くらい会わなかったことなど今までにだって何度もあった。
バイトやジムに追われてゆっくり休みの取れなかった頃はそんなことはしょっちゅうだ。
たいしたことはないと敢えて気にも留めていなかった俊だったが、
改めて「会うな」と言われたのは初めてのことでそれが妙に俊の気持ちにゆさぶりをかけていた。
特に高校を卒業してからは蘭世に身の回りのことも任せていたと言うこともあって、
突然一人で放り出されたようで俊はとまどった。
しかし、こんなことで負けるわけにはいかない。
それらの全てをパワーに変えてトレーニングに勤しんだ。
休憩の合図とともに、ジム内の張り詰めていた緊張が一斉に解けた。
試合が日に日に近づくにつれて、俊だけでなく周囲を取り巻くスタッフや他の選手達も
一緒に緊張感を高めている。
俊はパイプイスにかけてあったスポーツタオルを手にとってドカッとそこに腰をおろした。
さすがの俊もボクシングのときは人並みはずれた能力を消す。
完全なる人間としての能力だけに、これだけの運動量をこなすと大量の汗もでるし息遣いも荒れる。
俊はフゥと呼吸を整え、タオルを頭からかぶった。
「どうぞ。真壁さん。」
後輩の野瀬がスポーツ飲料のボトルを俊に差し出しながら隣に座った。
「真壁さん、禁欲令でてるんですって?」
小さい声で俊に身を寄せながら野瀬はそういった。
「・・・そんな大げさなものじゃねえよ」
俊はふっと笑って答えた。
「でも、オーナーがそこまで言う人だとは思ってなかったから、俺びっくりしましたよ」
普段穏やかで、選手達の意思を尊重してきた柴田の評価は、俊以外の選手達にもよいものだった。
トレーナーとしての新しいあり方だと、ボクシング界にも新しい風を吹き込んでもいた。
そんな柴田だけに、野瀬にとっても柴田の今回の俊に対する命令は衝撃的なものだったのだろう。
野瀬は目を丸くしながら俊に聞いていた。
「それだけ今度の試合が大事だってことだろ」
「でもそれに応じる真壁さんもすごいですよ。
俺だったら耐えられないかも・・・」
野瀬は後頭部を壁に預けて何かを思い出すような目で遠くを見ながら言った。
「・・・耐えられるよ。それを越える想いとプレッシャーがあればな・・・」
俊はニッと口元の端をあげて笑うと、ポンとボトルを野瀬に渡すと席を立った。
・・・・ちょっとキザだったか・・・・
外にでた俊は野瀬に言い残した言葉を思い出して、一人で照れながら、大きく一つ息を吐いた。
野瀬に大きく言い放ったものの、俊は自分の胸の中に何か得体の知れない物体が
どっしりと居座っているのを感じていた。
プレッシャーと言ってしまえばそれまでなのかもしれない。
だが、それはいつも感じるものとは明らかに違う動きを見せていた。
今度は絶対に負けられない。
そう思えば思うほど、
会ってはいけない彼女の面影ばかりが目に浮かぶ。
会ってはいけない・・・・
言葉にすればするほど、それはどんどん大きな意味を持っていくような気がする。
世界チャンピオンは
自分自身のためであり、所属ジムのためであり・・・・・。
表向きはそうなのかもしれない。
だが、実際は・・・
誰のためなんだ・・・?
チャンピオンのタイトルを手に入れることができたとき、
きっと大きく何かが変わる。
変わるであろう自分がその場にいることが想像できた。
心が落ち着かないまま、俊はドンっとジムのコンクリートでできた塀をこぶしで叩いた。
イライラするのは何なのか。
試合への不安なのか。
会えないという苦しさなのか。
イヤそんな単純なことばで言い換えられるものではない。
我慢することで忍耐力をつける。
それが、最終的に彼女を守ることの自信へと跳ね返り、それが彼女の幸せに続いていくはずなんだ。
今までもそれを十分わかっていたし、それを心の糧としてがんばってこれた。
それが俊の中のイデオロギーですらあったのだ。
それが今回はどうだ?
世界タイトルという看板がついただけで、試合はなんら変わらない。
状況もなんら変わらないはずだったのだ。
だから、柴田に蘭世と会うなと言われたときも、意表はつかれたとは言え、なんだそんなことかと正直鷹をくくってきた。
硬派な自分に戻るだけだったのに。
俊は首からかけてあったタオルを頭にすっぽりとかぶせた暗くなりつつある空を仰いた。
まだ、春になりきらない今の時期の風は、熱を帯びた俊の肩をひんやりと冷やした。
俊はゆっくりと瞳を開き、そしてゆっくりと息を吐いた。
こんなにも、アイツの存在が俺の中で大きくなっている・・・・・
それを認めた時、みぞおちの部分がぎゅっと何かに掴まれたように大きく軋んだ。
あの時、感じた痛みだ。
アイツが人間になって俺のところに戻ってきたとき、感じたあの痛み。
切ないような愛しいような・・・。
勝たなければいけない。
自分のためにもアイツのためにも・・・。
もうひとふんばりだ・・・。
俊はもたれていた壁から背を起こし、もう一度、ジムに戻った。
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