Sentimental Day
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「ただいまぁ・・・っと・・・」
誰に向かっていうでもなく、卓はノブをひねって実家の玄関をくぐった。
物音一つせずしーんと静まりかえった廊下が続いている。
この家を出てからもうどれくらいになるだろうか。
今は両親と妹の3人が住んでいるこの家。
だが、それも今日までのことだ。
明日からは、この家に残るのは父と母2人だけになる。
明日は妹、愛良の結婚式である。
家族水入らずで最後の夜を・・・と母の蘭世がお達しがあり、
仕事を早めに切り上げてきた。
(誰もいねえのか・・・?)
人の気配が感じられずに卓はキョロキョロと辺りを探りながらダイニングを覗きこむ。
部屋いっぱいに何かとてもおいしそうな匂いが充満し、
テーブルには夕食の準備がきちんと施されていた。
何かのお祝いといった時にはいつもこんな風に母は食卓を飾っていた。
母らしい少し少女趣味なランチョンマットを目にするのも何だかとても久しぶりだ。
自分自身、父親になった今でもこの家に来るとどうしても子どもに戻ってしまう気がする。
そういう穏やかな慣れ親しんだ空気が今もここにある。
しかし、また一人この家から離れていこうとしている今、その穏やかさの中にもどこかもの悲しい雰囲気が漂っている。
静かなだけのはずなのだろうが、自分の中にあるなんだかちょっとしんみりした気持ちが
そう思わせているのかもしれない。
すでに家を離れた自分がこんな風に感じるのもおかしな話だと思って、卓はふっと口元を緩ませた。
***** ***** *****
完璧に準備された部屋の中で、自分の身をどこに置いてよいのかとまどいを感じて、卓は部屋を出て2階に上がった。
電気もつけられていない暗い廊下に向かって、愛良の部屋から明かりがもれている。
作られた模型の中で、まるでそこだけが生を受けているような温かみがあった。
「愛良、いるのか?」
声をかけて覗いた先にはまっすぐに髪を下ろした母が、机に向かって立っていた。
「あら、卓。早かったのね」
一瞬、母なのか愛良なのかわからなかった。
こんな風にストレートに髪を下ろした母を今まで見たことがない。
母の髪はいつもゆるいウェーブがかかっていた。
若い頃はまっすぐなストレートだったとは聞いたことがあったが実際、目にしたのは初めてだった。
こんな風にすると、やっぱり愛良は母によく似ている。
「なんだ、お袋か。何してんだ?」
卓はそういいながら愛良の部屋に入った。
ピンク色とぬいぐるみでいっぱいだった愛良の部屋は今はもうすっかり片付けられていて、
机もベッドもシールが貼られた跡の残るタンスも、もうただの木材のようにひっそりとしていた。
まるでそのまま時間を止められたようだ。
愛良と自分との思い出ももうそのままこの部屋に置き去りになってしまうようで少し淋しくなる。
(ガキの頃はあんなにケンカしたりしたのにな・・・)
卓は、明らかに自分が貼ったと思われるシールの跡をそっとさすった。
「すっかり片付いたんだな」
「そうね。さっき、最後の荷物を持って行ったところよ。」
「愛良が持ってったの?」
「そう。開陸くんと一緒にね。ココちゃんとナリは?」
「朝から魔界。後で来るよ」
ナリとは5歳になる卓の娘である。ココに似た勝気なところにすでに父としては悩まされ始めているが、
俊も蘭世も魔界の両親も始めての孫ということで、(孫がいる年齢には到底見えない4人であるが)
それはそれは異様なほどの可愛がり方で、だが、それはそれで嬉しかった。
「親父は?」
さっきから気になっていたことを聞いてみた。
最後の夜だというのに、どこにも姿を見かけない。
「まだジムから戻ってないの。ちゃんと帰ってくるかしら・・・?」
蘭世は振り返りながら苦笑した。
母の苦笑の意味するところはわかっている。
父は今はもうボクサーを引退し、新たに自らボクシングジムを設立し、若年層を育てる側へと移っている。
俊なら、実際の話、年齢さえ問わなければ今でもボクサーとして通用する。
魔界人なのだから、体力が落ちることもない。
しかし、人間としての年齢ではもう十分な年だ。
これ以上続けることは明らかに人間としての域を超えることになる。
結局俊は、人間でもまだまだやれるという年齢で、電撃引退をした。
負け知らず伝説のチャンピオンというビッグネームを世に残し、何の前触れもなく突然辞めた。
妻も子どもも、みんなが驚かされた。
だが、引退するからと家族に告げた時の俊の顔は、卓は今でも覚えている。
一瞬、淋しそうに見えたが、それはすぐ穏やかな顔に変わった。
その答えを出すのに、どのような過程を経てきたのか卓にはわからなかったが、
俊なりにせいいっぱい考え抜いた結果であることは、変わることのない力強い目を見れば、もう問いかける必要はなかった。
人間界で生きていくということを身をもって教えられたような気がした。
小さい頃、父の目が大好きだった。
困ったことがあっても何でも助けてくれそうな深い目が好きで、よく俊の顔を覗き込んだ。
そうすると「何だ?」と言いながらも笑いかけてくれるのだ。
父の瞳の中に自分がいることが嬉しかった。
愛良が生まれたとき、大好きな瞳が自分ではなく妹を見ていることが多くなったように感じられて、
胸がきゅっとしめつけられるような気分になった。
だが、父の手を掴みながら、一緒に覗いた愛良の瞳が父のとよく似ていることに気がついた。
キョロキョロと見比べていると、また俊が「何だ?」と聞いて微笑んだ。
父の目の中にやっぱり今も自分がいて、愛良のまだ小さい目の中にも自分がいた。
自分の指を小さい手でぎゅっと掴む愛良を見て、この小さな子を僕がずっと守ってやろうと決めたのだった。
(愛良が結婚か・・・)
あれから20年の月日が流れている。
父も同じような気持ちを抱えているのだろうか。きっと抱えているのだろう。
もっと深い気持ちで抱えてすぎて、手放すのを怖がっているのかもしれない。
「親父はまだすねてんの?」
「さぁね。」
蘭世はふふふと笑った。
愛良の結婚が決まった時、俊が口をきいてくれないと愛良がうちにきてぐちっていた。
男親というものが、娘を送り出す際に淋しがるというのはよく聞く話だ。
実際、自分も男親というものになってみて、実感として感じてもいる。
だが、うちの場合はこうなることはとっくにわかっていたことだ。
愛良と開陸の関係は二人が生まれたときからの運命であったらしい。
卓でさえもそのことはうすうす感づいていたのだから、父ならもっとわかっていただろう。
心の準備なんてものはあまるほどあっただろうに・・・。
母のこのちょっと困った顔を見ると、まだ、手放しで喜ぶようになってはなさそうだ。
でも父の気持ちもわからなくはない。
兄である自分ですら、どこかやりきれない部分があるのだ。
たぶん、相手が開陸であろうと誰であろうと関係なく、妹が妹でなくなるような、手の届かないところに旅立っていってしまうような。
誰にあたることもできずに、もやもやした気分はいつまでも拭えない。
これが万一、開陸でなければ、結婚どころか交際も許さなかったかもしれない。
自分がこれほどまでなのだから、父にしてみれば・・・その真意は測りきれない。
どんな気持ちなのだろう・・・。
愛良の結婚についても語りあったこともないし・・・。
「迎えに行ってこようかな・・・」
「え?」
思わず口からこぼれた。
心の中でつぶやいたつもりだったのに、何故か言葉として口から出てしまっていた。
母はきょとんとして卓の顔を見ていたが、ゆっくりと微笑んだ。
「そう?そうしてくれる?お祝いに父親がいなければ始まらないものね。
それにお父さんも、卓と一緒の方が帰ってきやすいかもしれないし」
蘭世はそういって、軽く卓にウィンクした。
卓はフンと笑って足取り軽く、部屋を後にした。
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