遠い夏は夢の如し






夏独特の眩しい光線が無遠慮に照りつける。

江藤蘭世は買ったばかりの日傘を開いて、否応なしの炎天下に心ばかしの抵抗をした。

日陰を歩いていても、アスファルトから立ち込める熱気はすさまじく、蘭世は眩暈を覚えた。

じわりと吹き出る汗をハンカチで押さえながら空を見上げる。

こんな日は、こんな空は・・・

あの夏の日を思い出す。

せみがかしましく鳴く校庭を横切っていったあの後姿を・・・。






***   ***   ***






買い物をすませて自宅に戻る。

新築のハイツはまだ新しいにおいがして、ここに住んでいるという実感を未だ抱かせない。

住んでいるといってもまだここにきてから1週間ほどしかたっていないのだから

当然といえば当然なのだが、蘭世はこの真新しいにおいも嫌いではない。

結婚という新しい節目には、

住む場所をはじめ、何もかも新しいものが似つかわしい。



3週間後、蘭世は婚約者である筒井圭吾と結婚式を挙げる。

新しく借りたこの部屋は彼との新居であり、借りておいて空室にしておくのも・・・ということで

先週荷物を入れ一緒に住み始めた。



幸せというのはこういうことを言うんだろうと蘭世は最近特に思う。

愛する人に守られて生きていく人生。

支えてくれる人がいつも側にいるということが、いかに心強いものなのかということを

蘭世は圭吾と出会って知った。



彼とは3年前に出会った。

突然の眩暈に襲われて駅で座り込んでしまった時、手を差し伸べてくれたのが彼だった。

偶然といえば偶然だが、蘭世はそれを運命だと思った。

あの日、圭吾と出会い、親しくなってゆくことで、

それまで暗い海の底を漂っていた蘭世が水面に引き上げられたのは事実だった。

彼と出会っていなければ、どうなっていたかはわからない。



蘭世は買ってきたものを冷蔵庫につめた。

圭吾が好きだという杏仁豆腐も欠かさない。

そして、今夜の夕食のレシピを見ようと料理雑誌を開きながらソファーに腰掛けたちょうどそのとき、

蘭世の携帯が鳴った。








「もしもし。蘭世?」

声の主は高校の同級生である河合ゆりえであった。

商社でOLとして勤める彼女は、これまた同級生である日野克と一緒に暮らしている。

高校の時から付き合っている2人は、誰よりも早く結婚するだろうと思われていたが、

何か考えがあるのかどうか、同棲という形をとっているもののまだ結婚には踏み切ってはいない。



久しぶりのゆりえからの電話に蘭世は声を弾ませた。

「今度の土曜日空いてない?実家からワインをもらってきたの。一足お先に結婚祝いなんてどう?」

「ホント?今度の土曜だよね。圭吾も出張だっていってたから大丈夫だとは思うけど」

「あっじゃぁちょうどいいじゃない。圭吾さんには悪いけど蘭世だけを祝うとするか☆」

「あはは。一応聞いてみるけどたぶん行けるわ」

「じゃあ、5時ごろうちに来て。準備しておくから」

「うん。わかった。ありがと」

そういい終わると蘭世は携帯を閉じた。



ゆりえの彼である日野は蘭世の同級生でもあるわけだから、

今更特に気を使うこともなかったが、

最近はもっぱらゆりえと2人で外で会うことが多く、

2人の住まいにお邪魔するのは久しぶりだった。

昔はよくグループで遊んだりもしていたが、

あの高校3年の夏以来、その数はめっきりと減った。

それぞれが、それぞれの進路に向かって歩き出し、忙しくなったということもあったが、

それだけが理由でないことは誰もがわかっていた。

みんなで集まるということは、

「彼」を思い出さずにはいられないということを誰もが気づいていて、

そして誰もが、暗黙の了解のようにそれを避けていた。





これは一つの区切りなんだ・・・。

あれから6年もたった今、いつまでもそこに縛られているわけにはいかないのだし、

自分自身も新しい人生を踏み出そうとしている今だからこそ、

彼女達に背中を押してもらうことはいい機会だとも思った。

蘭世は赤いペンを手にしたまま、一瞬躊躇したが、

すぐにカレンダーの次の土曜日に赤く丸印を書き込みニコリと微笑んだ。







***   ***   ***







当日。

約束の予定よりずいぶん早く、蘭世はゆりえたちのマンションに到着した。

圭吾は朝早くから出かけていったし、特に何かをするわけでもなく、

準備なら一緒にしようと思ったのだ。

日野はどこかに出かけたが、夕方には合流するとのことで、

蘭世とゆりえは、蘭世の持参したケーキとともに、お茶を嗜んでいた。



特に何てない話題。

結婚準備の話や、今後のこと、ゆりえの仕事の話や、日野のこと、

そして最近遭遇した面白話など、とりとめもない会話は2人の心をほぐし、大いに笑った。

いくつでも話のネタが出てきてつきることはなく、

お茶を入れ替えようかとゆりえが立ち上がった時、玄関の方でガチャガチャと音がした。



「あら?克帰ってきたのかしら。早かったわね」

そういってゆりえは出迎えに行ったが、行く途中の廊下で「あっ」と息を飲むのがわかった。

「な、なんで!?」

「突然戻ってきたんだよ。コイツ。まだ時間あるだろ?」

雑誌に目を向けようとしていた蘭世も声の方を振り向く。

「って、ちょっと待って!もう蘭世来てるわよ!」

「えっ!?ウソ!」

歩きながらの会話はリビングに到達したところでピタリと止まる。

蘭世と日野の目が合う。

「・・・お邪魔してます」

「あっ・・・お、おぉ。久しぶり」

日野の引きつったような笑いが気になる。

蘭世が立ち上がり、もう一度日野の方へ顔を向けた途端、蘭世の表情は凍りついた。

視線は日野の体を通り抜けて、その後ろの人物を捉えていた。



心臓は大きく波打つが、指先すら動かせないまま蘭世は立ち尽くした。

蘭世だけでなく、その場の誰もが動けずにいた。

誰も予期していなかった再会が前触れもなく突然やってきて

なんと声をかけてよいかわからない。








「・・・久しぶり・・・だな」

長い沈黙を破ったのは彼であった。

―――真壁 俊―――

口元だけを緩ませてそうつぶやいた彼は、最後に見せた6年前の姿と

そう大きくは変わっていなかった。

はにかむような笑顔は昔からの彼の癖だった。

いっそわからないぐらいに変わっていたら、逆にこんなに動揺することもなかったかもしれない。



「・・・真壁くん・・・」

ようやく、蘭世の口から声が出た。

かすれるような声だったが、思ったよりはっきりと言葉にできた。

それをきっかけにゆりえが動いた。

「ま、まぁ、とりあえず突っ立ってないでかけて。ほら、真壁くんも・・・」

そういってゆりえは俊をソファーにまで押していった。

「そ、そうだな。久々に高校時代の仲間が集まったんだから、パーっといこうぜ!」

日野もゆりえに便乗し、ビールビールと言いながら戸棚を開けてグラスを取り出した。





蘭世のテーブル越しのソファに俊が腰掛けた。

目を合わせるのが気まずくてそらせてはいたものの、彼の存在が気になり

そっと顔を上げるとその視線は一分の隙もなく俊によって捉えられた。



―――離せない。

俊も何か神妙な顔つきをしていたが、照れくさかったのか、フッと笑った。

その笑顔につられて蘭世も顔を緩ませる。

見つめあって笑うのは、高校時代によくしていた2人の習慣だった。

蘭世はそのことを思い出して、顔を真顔に戻し目を伏せた。





あの夏の日が蘇る。

カタカタとテーブルに置いた指先が自分の意思に反して震えだす。

あんなに会いたかったあの人がすぐ目の前にいることが

未だ信じられず、蘭世はそのまま顔を上げれない。

その瞬間、蘭世のその指先を俊の手が触れた。

蘭世がゆっくりと顔を上げると、俊が黙ってこちらを見ていた。

蘭世はそのまま目を合わせたまま、そっと指をするりと俊の手の下から抜いて

自分の膝の上に載せた。

そして、もう一度瞳をそらした。













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