遠い夏は夢の如し







真壁俊と江藤蘭世。

ボクシング部のキャプテンとマネージャーという関係の2人は、

2人の通っていた聖ポーリア学園内では有名だった。

美男美女のカップルとしてもてはやされていたし、

2人の仲のよさはそれ以上に周知されていた。

真壁といえば江藤。江藤といえば真壁。

お互いがお互いのオーラをまとっているようなそんな印象さえ受けた。

1年の時、同じクラスになったことが付き合い始めるきっかけだったが、

どちらからともなくお互いが惹かれあった。

気づいたときにはもういつも一緒にいることが当たり前というような具合だった。

同じように日野とゆりえも付き合っていて、それぞれ同性同士も気が合ったこともあり

4人はよく一緒につるんでいた。

日野とゆりえはさらに生徒会執行部だったものだから余計注目の的になっていた。

そんな4人グループの関係に揺らぎが生じたのは

高校3年の夏だった。





どのクラブにおいても、3年生が受験のために引退し、

4人も例外なく満足感と少しの虚脱感を抱えながら、普段からのたまり場になっていたピロティの片隅に集まっていた。

それまでにも卒業後の進路だとかを話していなかったわけではなかったが、

部活も終わり個人面談も実施されるようになると、

今まで他人事のように感じていたことなのに、突然直面に立たされた気がして

それぞれがどこか不安で少なからず動揺もしていた。

その中での俊の発言だった。。。





「俺・・・アメリカに行くんだ」

誰もの動きが止まった。

寝耳に水とはこういうことで、日野はカバンを枕に寝ていたのに飛び起きるわ、

ゆりえは口をあんぐりとあけたまま俊とそして蘭世の顔を見比べていた。

「アメリカって・・・何それ・・・聞いてないよ」

ゆりえの質問に俊は目だけを動かしただけで何も応えなかった。

ゆりえは視線を蘭世に向けた。

「蘭世、知ってたの?」



名前を呼ばれた拍子に蘭世はビクリとした。

俊の言葉を聞いた瞬間から蘭世の思考は止まっていた。

俊が今、何を言ったのかが理解できなくて、さらに頭が真っ白になって

今、ゆりえに名前を呼ばれるまで、まるで時間が止まっていたようだった。

「あの・・・わ、わたし・・・」

やっとの思いで口を開いたが、その言葉は俊によって遮られた。

「誰にもまだ話してない」

「誰にもって蘭世にもなの?」

ゆりえが蘭世の様子を伺いながら俊に詰め寄る。

「ああ・・・」

「ああって・・・それ・・・」

「い、いつ行くんだよ」

日野も我に返って俊に尋ねた。

「9月」

「9月?・・・ってもう半月もねえじゃんか!何しに行くんだよ」

「何しにって・・・ボクシングに決まってるだろ。向こうに渡って本格的にトレーニングを積む」

「トレーニングは日本でもできるでしょ?それに何で9月なの?学校はどうするのよ」

「ジムのトレーナーの小関さんがアメリカに先に渡ってる。声かけてくれてんだ。

今のところでやるよりも向こうの方が集中してやれる」

「でも、こっちでトレーニングしてチャンピオンとった人だって、かなりいるだろ」

「・・・試したいんだよ・・・俺は・・・。ここにいればどうしても甘えてしまう。

ちょうどいい機会なんだ!チャンスは逃したくない!」

「それにしたって急すぎるわ!蘭世のことはどうするつもりなの!」



口論にも似た言い合いが栓をしたようにピタリと止まる。

蘭世はそれぞれが放つ言葉をゆっくりとかみ締めてきいていた。

そうしないと、この突然の衝撃にどうにかなってしまいそうだった。

膝が震えるのを両腕で抱きしめる。

「私・・・ごめん・・・先帰るね」

何事もなかったように振舞うのは正直辛かった。

でも蘭世はせいいっぱい普通のいつもどおりの顔を作った。

俊がいなくなることの不安。話してくれなかったことへの悲しみ。

自分の扱いについて困惑している空気の痛ましさ・・・。

とにかく今はここにある全ての感情から逃げ出したかった。

蘭世は力を入れてスクッと立ち上がり駆け出した。

「蘭世!ちょっと真壁くん!」

俊は黙ってコンクリートの地面を見据えたまま動かない。

「もう!」

ゆりえは走っていく蘭世の背中を追いかけた。





「・・・いいのか?追わなくて・・・」

日野は俊の顔を見ずに言った。

「追っかけたところで何を言っていいのか・・・わからない」

「・・・連れて行く・・・なんてことは・・・」

日野はちらっと俊を見たが、思いつめたままの顔をした俊の表情を確かめると「・・・ないよな・・・」とつぶやいた。

「それなら・・・待ってろぐらい言ってやれよ」

「・・・そんな権利ねえよ」

「権利って・・・お前・・・。江藤のこと大事じゃねえのか?」

「・・・大事だなんて言ってしまえば・・・俺は・・・前に進めなくなる・・・」

俊はそういって壁にもたれ、立てた右ひざに腕をのばした。

そして緊張にとらわれた体を解き放つように大きく息を吐いた。

「俺は・・・夢を捨てられない」

「・・・チャンピオン・・・か・・・

それは・・・わかるけど・・・このままじゃ江藤がかわいそすぎる・・・残される方のことも考えてやれ」

日野は俊の方を見ずに言った。

遠くから届く雑音がピロティに反響して二人に降りかかった。

「・・・そうだな」

俊は黙って立ち上がって、制服のパンツの汚れをパンッと払った。

「追うのか?」

「・・・行きそうな所はだいたいわかるから」

「ちゃんと説明すればわかってくれるさ。あいつだってバカな女じゃない」

「・・・あぁ。・・・じゃあな」

背を向けて歩き出した俊に日野はもう一言付け加えた。

「・・・ショック受けてんのは江藤だけじゃないんだからなー。友達甲斐のないやつめ」

俊は立ち止まった。

そして少し顔を横向けて「ものわかりのいい友達を持って俺は幸せだな」と言ったあと

フッとはにかんで去っていった。

「・・・バカヤロウ」

日野はその背中を見送りながらそうつぶやいた。






***   ***   ***






俊がまっすぐ目指した先に蘭世はいた。

公園の噴水の前で蘭世はたたずみながら水の流れを目で追いかけ、

その噴水の淵にゆりえは座っていた。

何の言葉も交わさずただゆりえは蘭世を見守るような形で、2人の時間が過ぎていた。

陽は傾き、斜めから蘭世の頬を照らしていた。

そして通り抜ける風は蘭世の長い髪を揺らしていた。



近づいてきた俊にゆりえがあっと気付いた。

そして立ち上がり俊のもとに近寄る。

お互いが持ち寄った重い空気が重なってパチンとはじけた。

ゆりえは俊に何か言おうとしたが、俊の顔をじった見たあとやめた。

そしてその代わりにふっとため息をついて、ポンと俊の肩を叩きそのままその場を離れた。

俊は去っていくゆりえを目だけでしばらく追いかけた後、ゆっくりと蘭世に近づき、ゆりえのいた場所に座った。





蘭世と目が合う。

蘭世の目は赤く充血し、頬には涙の跡が見えた。

光が反射してキラキラっとそれが光り、俊は綺麗だと思った。

そして、軋む胸の痛みを感じながら視線を地面に落とした。

「・・・ここだと思った・・・」

俊の言葉には答えず、蘭世は黙ったまま俊のとなりに座った。

沈黙が流れる。



俊も蘭世もこの空気をどうにかしようと試みたものの何も言い出せなかった。

口を開けば、抑えていた何かがあふれ出してしまいそうで

そして、今まで積み上げてきたものが一気に崩れ落ちそうで・・・

いつのまにか陽は落ち、ゆっくりと空が暗みを帯びてくる。

公園の街灯にもポツポツと灯りがともり始め、

いかに長い間、ここにこうしていたかを蘭世は何気に感じていた。

そしてふぅとため息だけこぼした。





「・・・どうして?」

「・・・」

「・・・なんで何も言ってくれなかったの・・・」

蘭世はようやく口を開いた。

ようやく言葉にしたものの、これが一番聞きたかったことなのかと言われれば自信はなかった。

だが、このことが蘭世に大きなショックを与えたことは紛れもない事実であった。

自分は頼りにならないのか、自分は特別な存在ではないのか、

どうして自分をおいていこうとするのか、もう彼は自分を必要としないのか、



もう・・・

彼は・・・

私を好きじゃないのか・・・



いろんな負の気持ちが蘭世の胸に次々と突き刺さって、蘭世は息が止まりそうだった。

「ゴメン」とだけつぶやいた俊の言葉が、耳の奥で何度も反響してそのたびに眩暈がした。

頭に浮かんだいろんなことを全てぶつけて問いただしたかったが、

何一つ言葉にできずに、蘭世は途方にくれた。

問いただすことが2人の関係を悪化させることを蘭世もわかっていたし、

そうできるほど我を捨てることもできなかった。

自分でもわけがわからないくらいに、すがりつけたらどんなにいいかとさえ思う。



「いつ帰ってくるの?」

「わからない」

「当然何年も先ってことだよね」

「・・・たぶん・・・」

「私・・・待ってられるかな・・・」

賭けだった。

俊の真意を知るための、そして今後の2人の行方の。

俊の答えが止まる。視線はずっと地面を見据えたままだ。

この沈黙がきっと答えなのだ。

蘭世は目を閉じる。



「・・・待ってなくていいから・・・」

あぁ・・・

言わなくたってよかったのに・・・

蘭世は閉じた目をさらにぎゅっと強く閉じた。

胸の奥がえぐられたように痛い。



「それは・・・別れるって・・・こと?」

あぁ・・・

私もバカだ。・・・自分で結局言い出しちゃって・・・

そして望みとは裏腹に俊の口からはそれを否定する言葉は出てこなかった。



「・・・ボクシングが好きなんだ・・・。世界一強い男になるのが俺の夢だ」

蘭世の瞳から涙が零れ落ちた。

俊の夢はずっと知っていた。

その夢がどれほど真剣なものかということを、側で、肌で、感じてきたのだ。

しかし、その夢のとなりに自分がいるのかどうかはずっと分からなかった。

いや、わからないフリを無意識にしていただけで、

こういう別れがくるかもしれないという幾許の不安は、ずっと頭の片隅にいつの頃からかすみついていて

今日受けた衝撃というのは、別れる別れないという話よりも

自分が思っていたよりもずっと早く、突如として現れたことへの驚きといった方が強かった。

そして、俊の考えていたことを、側にいながら全く気づかずにいた自分が何よりも悲しかったのだ。



「江藤・・・」

俊が思い空気の中、口を開いた。

「勝手に決めてしまったこと、悪いと思ってる。最低な男だってことも・・・。

わかってくれとは言わない。恨んでくれたっていい。

ただ、こういう形でお前を傷つけたことを謝りたい・・・」

「・・・謝られたって・・・どうにもならないよ・・・」

「・・・・・・・・」

蘭世は涙の跡をスッと指先でふき取った。

「わかった。真壁くんのこと、恨むことにする。嫌いになることにする。

そして、新しい彼氏作って私は私で幸せになるわ。

だから真壁くんも私のことはとっとと忘れてがんばって、ねっ」

蘭世は勢いよくまくし立てた。

顔を上げて、声を荒げて、引きつった笑顔は隠せないまま・・・

「・・・江藤・・・」

「うん、それがいい。・・・楽しかった。ありがと。じゃぁ元気で。バイバイ!」

最後にそういったあと、蘭世は立ち上がってそのまま走り出した。

振り向きはしなかった。

たぶん、俊も追いかけてこないはずだ。

よかった。。。

あともう数秒遅れれば、涙がまたあふれ出してしまうところだった。

一生懸命走った。

そうすることしかできなかった。。。






***   ***   ***






公園で俊と別れてから8月の末まで

、新学期が始まるまで蘭世は俊と顔を合わせることはなかった。

いつになれば涙は枯れるのだろうと蘭世は思いながら1週間あまりを過ごした。

まだまだ残暑は厳しく、新学期が始まった校舎にも遠慮なく夏の日差しが照りつける。

通学途中に久しぶりに顔を合わせたクラスメイトたちはだるそうにしながらも

夏の思い出を楽しそうに語り合っている。

蘭世は教室に向かう前にボクシング部に立ち寄った。

午後からの部活のために、部室の空気を入れ替えておきたかった。

マネージャー業を引退したといっても、なかなかその習慣は抜けない。

ここにいる理由ももうないというのに。





日野の話によると俊は今日、学校に顔を出してからそのまますぐ、アメリカに立つということだった。

たぶん・・・

もう会うこともないだろう。

それでいい・・・。

会ってしまえば、また枯れることなく湧き出る涙が溢れ出し、つらいだけなのだから。



蘭世は自分のロッカーに辞書を入れたままだったのを思い出し、取り出そうと開けた。

扉の裏側に紙切れがはさまってあるのに気がつく。

それをスッと手に取り開いて中身を確認した。




―――お前のこと                

           愛してた―――   ごめん




蘭世はドサリとカバンを床に落とした。

見慣れた文字が蘭世の心を大きく揺り動かす。

そして、止まっていたはずの涙がまた溢れ出した。



―――真壁くん!!!



蘭世は思わず走り出した。

部室を飛び出し、校舎へ向かう人の流れに逆そうして、

蘭世は走った。

息を切らし、グラウンドまでたどり着いた時、

去っていく後姿が目に入った。



「真壁くん!!!」



大声で叫んだ。

近くにいた学生達が何事かと振り向いた。

聞こえていないはずはない。

しかし、俊は振り向かなかった。

蘭世は息を吸い込みながら嗚咽した。

立っているのがやっとで、涙でその後姿の輪郭ももう形を成していなかった。

陽が燦々と降り注ぐ。

暑い・・・。

蝉の声も煩いほど校庭中に響いている。

しかし、その暑さも雑音も蘭世は感じなくなっていた。



行かないで・・・

心の中で何度も何度も繰り返したその言葉は

最後まで蘭世の口を割ることはなかった。



ズルイよ・・・真壁くん・・・



俊の最後のメモを蘭世は握り締めて地面に投げようとしたが、

その紙切れは蘭世の手の平から飛び出そうとはせず、

振り上げた右手を蘭世はゆっくりと下ろすしかなかった。












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