遠い夏は夢の如し







蘭世はゆっくりと目を開いた。

白い天井が視界にぼんやりと入ってくる。

朝・・・なのかな・・・

辺りが明るいことに蘭世はそう思った。

意識がまだ朦朧としている。

そして、その瞼のうらに俊の姿が焼きついていた。

夢・・・だったのかな・・・?

そう思ったとき、「気がついた?」との声が耳に入り、蘭世はそちらに目を向けた。

「あれ・・・圭吾・・・?私・・・」

蘭世はキョロキョロを瞳を動かして辺りを見回した。

「病院だよ。昨日の夜、君が倒れたってゆりえちゃんから連絡をもらって飛んで帰ってきたんだ」

昨日の夜・・・

昨日の夜は・・・

蘭世はじっと目を瞑る。

現実だったのか、夢だったのか、夢だったらどこからどこまでが夢だったのか・・・

「大丈夫か?」

「うん・・・ごめんね」

貧血は蘭世の持病でもあった。

倒れることはしょっちゅうでこういうことには慣れていたし、今は幾分気分もよい。

たぶん良く眠ったんだろう・・・

ゆりえたちに会って、久々に昔の話を思い出して・・・

きっと彼のことも思い出したんだろう・・・

だから夢になんかでてきたのだ。きっとそうだ。

蘭世はそう思った。



「大体の話はゆりえちゃんから聞いたんだけど・・・」

「・・・え?」

「真壁さん・・・って言ったっけ・・・?」

蘭世はぎょっとして目をパッと開いた。

「・・・まか・・・べ・・・?」

「僕がここに着いたとき、彼もいたんだ。彼が病院まで運んでくれたらしい」

あぁ・・・

やっぱり夢じゃなかったのか・・・

「真壁くんは・・・?」

「俺が来るとそのまま帰っちゃって・・・」

「・・・そう」

「お礼・・・言わなきゃな・・・」

「・・・・・うん」

帰ったのか・・・

蘭世はどこか淋しげで、どこかホッとした。

自分がバカなのだ。

俊は俊で新しい道を進んでいっている。

彼の言ういくつもの犠牲とは、もうすでに過去のものでしかない。

自分はそれを読み取れずに一人で動揺していただけなのだ。

またズキリと胸が痛む。



「なぁ蘭世・・・」

圭吾が蘭世にそっと問いかけた。

「こんな時にいうのもどうかなと思うんだけど・・・」

「・・・え?」

「結婚・・・君が望まないならちょっと待ってもいいんだよ」

蘭世は目を見張って圭吾に視線を合わせる。

「・・・どういう・・・こと・・・?」

「倒れた原因・・・彼じゃないのか?」

蘭世の鼓動が大きくなる。

「調子のいいときじゃないのに、こんなこというの酷かもしれないけど・・・」

圭吾は蘭世の隣の椅子に座って顔の前で両手を組んだ。

「君には言ってなかったけど・・・俺、彼のことゆりえちゃんから聞いてるんだ」

「え?」

「ずいぶん前だけど、まだ付き合いだしたころかな。

君の時折見せる、何か思いつめるような表情が気になって、ゆりえちゃんに聞いてみたことがあったんだ

それで、彼とのことをきいた。君には言わないという約束で。」

蘭世はそっと圭吾から瞳をそらせた。

「そう・・・なんだ・・・」

「俺は、迷った。でも俺は君に惚れていたし、そんな君をほっとけなかった。

俺が君を守っていけたらと思った。現に、君はこうして心も開いてくれたし、

あのどこか淋しげな表情は見せなくなっていった。そしてもう大丈夫なんだと思ってたよ」

「・・・・・・」

「でも、今の君の表情・・・あの頃の表情と同じだ・・・」

蘭世の瞳からポロリと滴が横に流れる。

「君を見放そうとしてるわけじゃない。

ただ、現に彼に再会して、君は改めて確信したんじゃないのか?

そんな状態で結婚なんかしていいのかよ。

彼にその気持ちは伝えた方がいい。」

「・・・どうして・・・どうしてそんなこと言うの・・・?

どうしてそんなに優しいの?・・・こんな私・・・最低なのに・・・

ホントは責められなきゃいけないのに・・・」

圭吾ははぁ・・・と大きく息をついた。

「・・・わからない・・・でもたぶん、オオバか者で、どこまでもお人よしなんだよ」

「・・・でも・・・もうホント今更なのよ。6年も経ってる。

たまたま偶然再会しただけで、私もちょっとぐらついただけなの。きっとそれだけなの」

「そんなことあるわけないこと・・・君が一番分かってるはずだろ」

「・・・でも・・・」

「彼の気持ちを心配してるのか?」

「・・・・・」

「はぁ・・・これは・・・言わないでおこうと思ったけど・・・」

といったあと、圭吾はそのまま続けた。

「昨日、彼が帰り際、俺に言ったんだ。江藤のことよろしくお願いしますって・・・」

「・・・・・・」

「深々と頭を下げて・・・何かえぐられるような気分だった。

彼の気持ちがその短い言葉に全て込められているようで・・・痛かったよ。

6年って時間が君たちにとって長いものなのか、短いものなのかそれはわからない。

だけど、その6年間を簡単に払いのけられるくらい君たちが強く求め合ってるってことが

俺にはわかる」

「・・・・・・」

「君の表情を見て確信したよ。君を変えられるのはやっぱり俺じゃないって・・・」

室内に重い沈黙が流れる。

「万が一、彼が君を拒否したとしたら、そのときはまた、ここに戻ってくればいいよ」

「圭吾・・・」

圭吾はポンと蘭世の頭に手を乗せて、じゃあ仕事に行くよと部屋を出て行った。

蘭世は顔を両手の平で覆って、激しく嗚咽した。





俊が滞在しているというホテルのロビーに蘭世は立っていた。

あの後、蘭世はすぐ退院して家に戻ったが、圭吾は仕事を理由にその夜帰ってこなかった。

そして、次の日の今日、蘭世はここに来た。

どうしようか、散々まよった末、結局夜になってしまった。



圭吾の言ったことは、圭吾の主観的な思いであって、

俊の気持ちをそっくりそのまま組み入れているのかどうかはわからない。

ただ、蘭世の気持ちが確かなのは確実であって、もうそれに迷うことはなかった。

圭吾のことは好きだった。

だけど、たぶんそれは俊への想いとは違う。

俊への想いとは、もっと劇的で、あらだたしくて、もっと繊細なものなのだ。

そして、この先がどうなろうとも、あの夏の日の別れになにかしら決着をつけなければ、

きっと6年たとうが10年たとうが、おばあちゃんになったとしても

そこからは一歩も動けないのだ。



フロントから電話を入れてもらおうと蘭世はそちらに歩き出そうとしたそのとき、

後ろから腕を掴まれた。

蘭世は振り向く。

「―――真壁くん」

「何やってんだ、お前こんなとこで・・・具合もういいのか?」

「う、うん・・・ゴメンね。迷惑かけたみたいで」

「そんなこと気にすんな。でも・・・なんでここに・・・」

蘭世はぐっと息を飲む。

「は、話さなきゃいけないことがあって・・・」

「・・・・・」

俊は蘭世を見つめる。

蘭世はその視線を受け止める。

「とにかく・・・ここじゃなんだから・・・」と俊は辺りを見回した。

ロビーにあるラウンジも人が溢れていてとても静かに話せそうもない。

「よかったら・・・俺の部屋でもいいけど・・・」

蘭世はこくんとうなづいた。





「お茶でいいか?」

俊は部屋に備え付けられている冷蔵庫の扉を開き中から缶入りのウーロン茶を二本取り出し、

一本を蘭世に渡して、もう一本の蓋を開けた。

窓際に置かれている椅子にソファーに座る。

沈黙が流れていた。

何からどう話せばいいのかわからなかったし、言葉が思いつかない。

蘭世は持っていてウーロン茶の蓋を開けて一口飲んだ。



「あの人、いい人そうだな・・・」

俊が沈黙を破った。

圭吾のことだろうと蘭世は思う。

「・・・うん・・・」

「お前が言ってたこと分かる気がするな」

「え?」

「幸せになれるって言ってただろ?あの時・・・」

「あぁ・・・」

そういえばそう言った。確かにそう思っていた。しかし、今ではその幸せの意味が違うことに気づく。

「話、そのことじゃないのか?」

俊は窓から見える夜景に目をやった。

「・・・・・・」

俊の横顔を蘭世は見つめる。

私は・・・

「この前、久々に真壁くんに会って・・・私わかった」

「え?」

「私は圭吾とは幸せになれないって・・・」

「・・・・・・」

俊が蘭世を黙って見つめる。

「あの時、あの夏の日・・・私はあそこで立ち止まらずに、あなたを追いかけていればよかった」

「江藤・・・」

「これ・・・」

蘭世はバッグから手帳を取り出し、そこから、ボロボロになった紙切れをテーブルに差し出した。

俊の目が大きく開く。

「もっと早くに捨てるべきだったんだけど・・・捨てられなかった・・・

こんな紙切れ・・・何にも役に立たなかったのに・・・」

そこには消えかけた文字が残されてあった。



―――お前のこと            

           愛してた―――   ごめん



「私の気持ちはこのときから、何にも変わってないの」

「・・・・・・」

「圭吾はわかってた・・・こんな私を。。。

でもこんな気持ちのまま結婚したって、たぶんそれはホントの幸せじゃない

圭吾のことも幸せにしてあげられない」

「真壁くんがこの6年、どう過ごしてきたのかはわからない。

たぶん、きっと素敵な恋愛もして、たぶん、あの夏のことも思い出として存在するだけなのかもしれない」

蘭世の目から涙がこぼれ始める。

そしてあふれ出たそれらはとどまることを知らずに次から次へと流れ落ちる。

「でも、私はこの気持ちを伝えなきゃ、やっぱり前に進めないの。

現に進めなかった。進もうとしたけど、無理だった。」



「私は――――・・・

私は・・・・真壁くんが今でも――――」



その拍子に向かいに座っていた俊が勢い良く立ち上がった。

そして蘭世の側に来たかと思うと、腕を掴み蘭世をぐいっと引っ張り上げると

そのまま、激しく蘭世に口付けた。

蘭世の息が止まる。

俊の両腕が蘭世の背中に回りそのまま強く抱きしめられた。

離れてはまた口付け、首の位置を変えまた貪るように口付ける。

何か激しい衝動に突き上げられた二人が、身も心もお互いに向かって流れ、

溢れだす想いが零れ落ちるのを必死で止めているような感じだった。



そして、数分の愛撫が終わるとふっと二人は息をつき、そっと離れて見詰め合った。



「俺は・・・今でも・・・お前を愛してる・・・」



俊は呼吸を乱したままそうつぶやいた。

蘭世の胸の奥が何かにぎゅっと捕まれるような甘い痛みを覚える。

そして、もう一度俊は蘭世を自分の胸に引き寄せ強く抱きしめた。

「今度こそ・・・俺は死ぬかもしれないって思った・・・」

「・・・真壁くん・・・?」

「あの夏の日・・・お前を手放した時、死ぬほど後悔した。

でもだからって、お前のところに帰るわけにはいかなかった。

自分で決めたことで、そのせいでお前を傷つけた。

そんな状況でお前に会えるはずもなかった。」

「全てを投げ打ってボクシングに全身全霊を注いだ。

チャンピオンは確かに夢だったし、チャンピオンにならなければ、自分のしたことに理由がつけれなかった。」

「でも・・・結局、チャンピオンなんてたいしたことじゃなかった」

「そんなことないよ。すごいよ。ホントすごいと思う」

蘭世の顔を見て俊はフッと微笑んだ。

「そうじゃないんだ。お前が側にいない辛さは、チャンピオンを手にしたことでさえも

埋められなかったんだ。」

「・・・真壁くん」

「その程度の夢だったんだ。」

「・・・・・・」

「お前が結婚するってきいて、俺は気が狂いそうだった。

でもそれは、結局自分がしたことの報いなのであって、せめてお前が幸せになってくれればいいとおもったんだ。

でも、それは間違ってた。

そう思うことで、自分の気持ちを紛らわせて傷つくことから逃げただけだったんだ。

お前にここまで言わせて・・・やっとそれに気づくなんて・・・

思い出になんてできてるわけない。

できてたら、たぶん俺は日本に帰ってこなかった・・・」

蘭世は俊が自分を抱きしめる力を身を持って感じていた。

痛くて・・・このまま壊れてしまうかもしれないと思った。

でもそれでもいいと思った。

愛する人に抱きしめられることがこんなに幸せなものなのか・・・

蘭世は俊の胸に顔を当てて、肩を震わせた。

この前の涙とは明らかに種類の違う、穏やかな涙だった。












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